Otomo-Oji and Jinshin-no-Ran Exhibition
大津市歴史博物館で「大友皇子と壬申の乱」特別展が開催されている。本日が最終日ということで、昨日散歩のついでに立ち寄った。
天智天皇は大津京に遷都したが、天智天皇が亡くなると第一子で皇太子である大友皇子が即位することになる。しかし、吉野に退いていた天智天皇の弟である大海人皇子は、大友皇子討伐に兵をあげる。これが壬申の乱である。
その背景、戦乱の推移、結果とその後の経緯についての展示であった。基本的には日本書紀の記載をもとにしている。勝った大海人皇子がその後天武天皇として即位し、天武天皇と持統天皇(天武天皇の皇后)時代に書かれたのが日本書紀である。
故に天武天皇側から見た歴史であり、大友皇子が天皇に即位したことは書かれていない。明治になり大友皇子が天皇に即位したと認識され、今では弘文天皇として認められている。
そして弘文天皇の墓はどこかとの論争もあり、いろいろな説が出ていた。結局、大津京近くの三井寺北の現在の場所に特定されている。
壬申の乱は皇位継承をめぐっての、先の天皇の弟と長男との戦いで、天皇家の皇位争いの生臭い事件として理解できる。
今の天皇はこの血を継いでいるものと理解出来るが、一方では明治維新時に明治天皇はすり替えられたとの宮内庁担当者の証言もあり、なんとも言えないようである。
今までの歴史はすべて勝った者からの記録であり、遺跡の調査など多面的に研究しないと真実は分からない。
歴史とは 勝者が書いた 物語
(れきしとは しょうしゃがかいた ものがたり)
明治以降弘文天皇が認められたのは、真実に近づいたのかもしれない。