木食遺蹟
(国道1号線山科日ノ岡)
木食遺蹟(粟田口の大名号碑)の説明
蹴上インクライン
インクラインの説明
船運搬台車
疎水の堰
田辺朔郎像
田辺朔郎の説明
像のある高台からの風景
(赤い鳥居は平安神宮)
疎水パイプ(高台から流れ落ちる)
流れ落ちた後の疎水
岡崎疎水
東山通今熊野から山科への道
中尾稜
中尾稜
山科側 道標(滑石街道)
小関越え道を通って山科疎水散歩道をサイクリングし、日ノ岡にある木食遺蹟に達した。木食とは草根木皮の生食のみで生きる難行のこと。木食正禅が江戸中期、京都の最大の刑場である粟田口で回向したとのことで碑が残っている。「南無阿弥陀仏木食正禅粟田口寒念仏墓廻り回向」と書かれているらしいが、下部は地中に埋まっている。
国道1号線の日ノ岡峠を越えると蹴上である。インクラインを上がって疎水の高台から京都市内が望める。この疎水を設計、施工した田辺朔郎の銅像がある。工部大学校(現東京大学工学部)の卒業論文が疎水であり、それを実現したもの。完成した時は、まだ28歳との若さであったという。明治時代に活躍した人は若くして責任ある業務を任されていた例の一つである。
この疎水は京都への水の供給と共に、インクラインを使った輸送、それに水力発電による日本初の市電(北野電車)の実用化など、京都の近代化に大きな役割を演じている。この北野電車は今名古屋犬山の明治村に保存されているが、小学生のころ北野へ行くとき実際に乗ったこともある。
南禅寺、瓢亭、古川商店街などを通り東山通を南下、JR東海道線路を渡ると今熊野となる。途中、八坂神社、清水寺付近は観光客で混雑していた。
今熊野から山科に抜ける道には鳥戸野、中尾陵参道の道標がある。この道は滑石街道という。一説には、岩屋寺(大石寺)に通じている道であるため冬場凍結の中、大石良雄が遊びで祇園・伏見に通うときに滑ったという話から呼ばれているという。
峠を越えると山科である。その後山科疎水を通り、小関越え道で帰宅した。
峠を越えると山科である。その後山科疎水を通り、小関越え道で帰宅した。
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