「穴太衆積み石垣」の説明
穴太一丁目
高穴穂神社
「高穴穂宮跡」の説明
神社参道
舞殿
本殿と舞殿
穴太の町並み
穴太町集会所
足利第12代将軍義晴病死の場所
いつもの散歩の代わりに今日は自転車で4kmほど北にある穴太地区へ出かけた。坂本の手前少し坂を上がったところに穴太の町がある。
すぐに気が付くのは高穴穂神社である。鳥居前の説明板によれば、12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇の都であったとの伝承があるとのこと。調べてみると日本書紀、古事記に記載があるが実在していたかは確証が取れていないようだ。都も景行天皇は福岡筑紫橿日宮との説、仲哀天皇は下関の穴門豊浦宮との説などあり定かでない。
この穴太は穴太石垣技術発祥の地として有名である。坂本地区の寺院のほとんどの石垣は穴太石垣である。織田信長がその頑丈な構造を知り、安土城などその後の城の石垣に採用し、全国に広まった。
この春熊本地震で石垣が壊れているが、壊れたところは現代になって改築したところと聞いている。今回の修復には穴太の技術を採用すべく検討されているという。
今では普通の町並みであるが、一角に足利12代将軍義晴病死の場所として供養塔があった。室町幕府から戦国時代への移り変わり時期、義晴は京都での政権争いの中、避難する場所として坂本の地を使っていた。その行き来には志賀越道(現在の道路では山中越え)を使っていたのであろう。そして、病気がちになり銀閣寺などから逃れてきてここで亡くなったとの歴史である。
志賀越道は今も山道として残っているというが、一度歩いてみたいと思っている。聞くところによると峠近くが山崩れで通れなくなっているという。確認してみたく思う。
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