2017年1月29日日曜日

水仙

 柳川土手の水仙
  柳川土手の水仙
  柳川土手の水仙
ヒヨドリ?

  いつもの散歩コースである柳川土手を歩いていると、野生の水仙が咲いているのを見つけた。昨日も同じコースを歩いているが緑の葉だけが記憶にある。今までの寒さが緩んでいる。植物は季節の変わり目を敏感に感じているようだ。

  つくば時代にも2月になると土手にタンポポの花が咲き、春の到来を告げていた。まだ寒さがやってくると思うけれど、着々と季節は春に向かっていることを植物は伝えてくれている。

  先日我がベランダのオリーブの実を食べていた野鳥と同じ種類の鳥が、柳川の土手にも舞っていた。ヒヨドリか、未だに何という鳥かわからないでいる。

2017年1月26日木曜日

三上山(近江富士)

近江大橋から見た三上山
(手前の橋は矢橋帰帆島橋)
野洲川
野洲川からの三上山
国道8号線からの三上山(米原方向)
南方向からの三上山(右 女山)
東南からの三上山
東からの三上山
近江富士花緑公園
公園の噴水
公園からの三上山
公園内
登山口表示
登山口
途中看板
登山道
登山道標識
途中道案内
雪の登山道
雪の登山道
雪の登山道
雪の登山道
頂上の表示
頂上
頂上(432mの表示)
三上山の説明
頂上にある祠
(麓の御上神社の奥宮)
頂上展望岩からの風景
(野洲川と国道8号線)
展望岩の説明板
琵琶湖南湖と矢橋帰帆島橋(右下)
(中央高層ビル付近が大津京駅)

  天気が良く、三上山(近江富士)に登ることにした。サイクリングも兼ねて、近江大橋から草津に入り、国道8号線に向かった。

  国道8号線を走るとだんだん三上山が大きく見える。守山を過ぎて、野洲川からは麓も含めてすべての姿を見ることが出来る。三上山の周りの道を左回りに走る。南から見ると二山になっていることが分かる。低い山は女山という。東側に回るとまた一山の三上山の姿になる。

  まもなく近江富士花緑公園に到達する。先日来の雪が結構残っている。木々、散策路などがあり噴水のところで休憩をとる。

  公園から道を挟んで登山口がある。最初は幅の広い道であるがだんだん細い急な道になってゆく。そして雪道が続く。滑らないように靴にはあらかじめ滑り止めゴムカバーを着けているので滑ることはない。たまに大きな石が段差を作っており、足を高く上げないと進めない。いつも使わない筋肉を使うことになる。

  約1時間で頂上に着いた。頂上も雪が残っている。頂上には432mとの表示がある。頂上は木で囲われており何も見えないが、西側に少し下ると祠と展望可能な岩もある。祠は麓の御上神社の奥院である。

  展望岩からは、琵琶湖南湖、比叡山などの山々が望め、眼下には野洲川、国道8号線がはっきり見える。正面南湖対岸には高層ビルがかろうじて見え、この辺りが大津京駅と思われる。

  登りの途中、下りてくる若者と出会ったが、下山しているとまた登ってきていた。そしてまた下りてきて追い抜いて行った。この山でトレーニングしているようである。

  この山は東側のみならず御上神社のある西側からの登山道もあり、次回は西側から登ることを考えたい。

2017年1月23日月曜日

オリーブの木と野鳥

ベランダのオリーブの木と野鳥
 ベランダのオリーブの木と野鳥
ベランダのオリーブの木と野鳥

  ベランダには二本のオリーブの木がある。以前住んでいたマンションには鉢植えのオリーブの他、ブルーベリー、樅ノ木、枇杷の木などがあった。引っ越しにあたり身軽になるため二本のオリーブ以外は処分して琵琶湖にやってきた。

  二本の内、一本にはたくさんの黒い実が成熟していた。最近野鳥が現れこの実を食べているところを目撃した。毎日のように来て、とうとうほとんどの実が無くなってしまった。

  この広い琵琶湖で、よくもこのベランダのオリーブを見つけたものと感心する。そして食べつくした後は、現れることはなくなった。

  そういえば、つくば時代にも借りた畑一面に小麦の種をまいたとたん、すぐにいろいろな野鳥がやってきて種を食い荒らしていた。それでも小麦の芽が出て一面小麦畑になったことを思い出す。野鳥というのは目がいいのであろうか。

  今回のこの野鳥は何という鳥なのか。ヒヨドリのようであるが、調べているところである。

2017年1月22日日曜日

京都蹴上

 木食遺蹟
(国道1号線山科日ノ岡)
 木食遺蹟(粟田口の大名号碑)の説明
 蹴上インクライン
 インクラインの説明
 船運搬台車
 疎水の堰
田辺朔郎像
田辺朔郎の説明
像のある高台からの風景
(赤い鳥居は平安神宮)
 疎水パイプ(高台から流れ落ちる)
流れ落ちた後の疎水
 岡崎疎水
 東山通今熊野から山科への道
 中尾稜
 中尾稜
 山科側 道標(滑石街道)

  小関越え道を通って山科疎水散歩道をサイクリングし、日ノ岡にある木食遺蹟に達した。木食とは草根木皮の生食のみで生きる難行のこと。木食正禅が江戸中期、京都の最大の刑場である粟田口で回向したとのことで碑が残っている。「南無阿弥陀仏木食正禅粟田口寒念仏墓廻り回向」と書かれているらしいが、下部は地中に埋まっている。

  国道1号線の日ノ岡峠を越えると蹴上である。インクラインを上がって疎水の高台から京都市内が望める。この疎水を設計、施工した田辺朔郎の銅像がある。工部大学校(現東京大学工学部)の卒業論文が疎水であり、それを実現したもの。完成した時は、まだ28歳との若さであったという。明治時代に活躍した人は若くして責任ある業務を任されていた例の一つである。

  この疎水は京都への水の供給と共に、インクラインを使った輸送、それに水力発電による日本初の市電(北野電車)の実用化など、京都の近代化に大きな役割を演じている。この北野電車は今名古屋犬山の明治村に保存されているが、小学生のころ北野へ行くとき実際に乗ったこともある。

  南禅寺、瓢亭、古川商店街などを通り東山通を南下、JR東海道線路を渡ると今熊野となる。途中、八坂神社、清水寺付近は観光客で混雑していた。

  今熊野から山科に抜ける道には鳥戸野、中尾陵参道の道標がある。この道は滑石街道という。一説には、岩屋寺(大石寺)に通じている道であるため冬場凍結の中、大石良雄が遊びで祇園・伏見に通うときに滑ったという話から呼ばれているという。

  峠を越えると山科である。その後山科疎水を通り、小関越え道で帰宅した。