2020年2月19日水曜日

Suzuka Mountains(鈴鹿山系)

 Yanagasaki Lakeside Park with Snow in Yeaterday Morning
Suzuka Mountains with Snow Today
 
Mt. Ibuki with Snow
Walking 6.69 km, 7676 Steps
(Usual Course)

  昨日の朝にはこの冬2回目の積雪があったが、琵琶湖周辺の山々も銀世界となった。本日散歩中に東の遠方を見ると、近くの比叡山、比良山にはほとんど雪はないが、東側奥の鈴鹿山系の山々には白い雪が残っていた。

  暖冬の冬であるが、2度目の寒波である。雪は冬の風物詩であるが、ここ琵琶湖では彦根、高島を境界として、北は北陸気候、南は表日本気候に分かれている。

  琵琶湖の冬場は日本の典型的な2種類の天候を経験するところであるが、今年の雪は北地区でもわずかという。散歩中は寒さを感じるが、温暖化は進んでいると感じる。

北琵琶湖 温暖化にて 雪僅か
(きたびわこ おんだんかにて ゆきわずか)

2020年2月18日火曜日

Seimei-Shrine(晴明神社)

 Stone Pillar of Seimei-Shrine
First Gate(一の鳥居)
Pentagram(五芒星) 
 Explanation of Seimei-Shrine
Imitation of Ichijoumodoribashi
 Second Gate(二の鳥居)
Seimei Spring (Since Seimei Living here)
 Honden(本殿)
 Statue of Abeno Seimei
 Peach protecting against Misfortune
(Accordfing Onmyoudou, 陰陽道)
Camphor Tree 
(Sacred Tree, about 300 Years old)
Walking 6.83km, 8146 Steps
(Usual Course)

  先週は妙蓮寺の後堀川通りに出て、さらに南下した。まもなく晴明神社に着く。安倍晴明を祀る神社である。

  安倍晴明は陰陽道の祖として知られているが、この場所に邸宅を構えていた。亡くなってすぐに、当時の一条天皇の勅旨により、1007年に創建された。

  一の鳥居には五芒星の扁額が掛けられている。陰陽道での五行を表している。木、火、土、金(ごん)、水の五つをさす。それに陰陽の甲乙丙丁戊己庚辛壬葵(こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き)を組わせてこの世の事象の説明をする。

  一の鳥居と二の鳥居の間にはもともと一条堀川にかかっていた戻橋を再現した欄干がある。

  建礼門院が子供(後の安徳天皇)を出産するときに12人の童子が戻橋を渡りながら生まれてくる皇子の将来を予言する歌を歌ったという。晴明は妻が怖がるため式神として祀っていた十二神を戻り橋の下に置いていたことから、この童子が十二神の化身であったという話からこの橋を再現している。

  二の鳥居をくぐると、すぐ右手に晴明井がある。晴明が住んでいた時から湧いている水で、利休が切腹するときの最後のお茶の水でもある。

  そして、突き当りに本殿がある。その左には安倍晴明の像があり、右には桃の彫刻がある。陰陽道では桃は魔除け厄除けの果物といわれている。

  この桃の手前には樹齢約300年という楠木がご神木として本殿を見守っている。

晴明の 陰陽道は 生き続く
(せいめいの おんみょうどうは いきつづく)

  この後、堀川通をさらに南に歩いたが、すぐ近くの一条には戻橋があり、1995年にかけ替えられたものである。

2020年2月17日月曜日

Myouren-Temple(妙蓮寺)

Sanmon(山門)of Myouren-Temple
Explanation of Myouren-Temple
Bell Tower (Under Repairing)
Hondou(本堂)
Expalnation of Honmyouin-Garden
Entrance of Honmyouin
Walking 6.54 km, 7995 Steps
(Usual Course)

  昨年秋に山科にある本圀寺を訪れている。京都には日蓮宗(法華宗)大本山として本圀寺があるが、洛中二十一本山もある。先週、船岡山を登った後さらに南下し、その二十一本山の一つである妙蓮寺に立ち寄った。

  この寺は1294年に日蓮聖人の孫弟子にあたる日像聖人が、京都布教を目的として京都に最初に創設した日蓮宗の寺である。

  京都で日蓮宗は他の宗派とのいざこざが絶えず、1536年には比叡山延暦寺などによる焼き討ちに会い、天文法華の乱が起こる。それに敗れ堺に逃げるが、秀吉時代に京都に戻り再興される。

  妙蓮寺は1平方キロ四方の広大な境内を持つ大寺院であったが、天明の大火(1788年)でほとんどを失い、山門と鐘楼だけが残ったという。寛政年間に再建されて今に至っている。

  今も修復中の鐘楼と山門は健在であった。さらには本堂も見られ、本堂は再建されたものと思う。

  境内西には塔頭の一つである本妙院があり、その庭園は枯山水の庭として知られている。

  ちなみに、本能寺の変で有名な本能寺も、本圀寺も日蓮宗洛中二十一本山の一つである。

京散歩 日蓮宗の 歴史知る
(きょうさんぽ にちれんしゅの れきししる)

2020年2月16日日曜日

Mt. Funaoka(船岡山)

Name Board of Funaokayama-Park
Entrance of Funaokayama Park
 
Steps
Viewing from Plateau near Top of Mountain
 Top of Amagatake(天ヶ岳)with Snow
Mt. Hira (比良山地)
 Mt. Hiei(比叡山)and Mt. Daimonji(大文字山)
Top of Mt. Funaoka
 
Explanation Board of Triangulation Point
(Height : 111.89 m)
Smartphone idicated 110 m height
Kyoto City from Top of Mt. Funaoka
 Left Daimonji from Top of Mt. Funaoka
Walking 6.78 km, 7741 Steps
(Usual Course)

  先週京都今宮神社を訪れた後、南に歩き船岡山に初めて登った。山といっても112mの高さで丘のような山である。上から見ると船のような形をしており、船岡山と名付けられたそうである。

  坂道と階段を上がると、頂上近くに台地がある。ここからは京都の北から東にかけて望むことが出来る。

  学生のころ登った天ヶ岳と思われる白い山が北の方向に見える。少し南には比良山と思われる白い山も見える。さらに南には比叡山、大文字山と続く。

  頂上には三角点があり、標高111.89mの表示がある。頂上からは京都市内が一望できる。そして、左大文字は真近くにある。

  8月の大文字送り火の夜にはたくさんの見物人で賑わうそうである。大文字の見学には絶好の場所といえる。

大文字 船岡山で 見てみたい
(だいもんじ ふなおかやまで みてみたい)

2020年2月15日土曜日

Otsu Castle(大津城)

Stone Wall Imitation of Otsu Castle
Explanation of Otsu Castle
 Map of Otsu Castle
Exhibition of Omi Sengoku Rekishi Roman 
(Otsukan at Lakeside Park) 
 Castle Diorama in Omi District
Explanation of Azuchi Castle
Diorama of Azuchi Castle
Explanation of Sakamoto Castle
Diorama of Sakamoto Castle
Explanation of Seta Castle
Ziorama of Seta Castle
Explanation of Otsu Castle
Diorama of Otsu Castle
Explanation of Otsu Castle Battle
Diorama of Otsu Castle Battle
Explanation of Zeze Castle
Diorama of Zeze Castle
Walking 4.33 km, 5471 Steps
(Dentist, Otsukan)

  先日JR大津駅からの帰り歩いていると、旧大津城を模した石垣があることに気が付いた。

  現在の浜大津からの一帯が大津城であった。秀吉が天下をとった後、明智光秀の城であった坂本城を廃止し、北陸、東海へのかなめの地として大津城を築城している。

  関ケ原の合戦の時には京極田勝次が城主で、東軍についたことから合戦前に西軍に攻められている。抵抗を続け西軍がかなりの戦力を消耗したという。それが西軍の敗戦の原因の一つといわれている。

  徳川の時代になると、大津城も廃止され、家康は膳所に新たに城を造る。やはり東海道、北国街道の要所として管理するのが目的。

  ちょうど今大津館で、近江戦国歴史ロマンの展示会が開かれており、本日歯医者の帰りに見学した。近江の城のジオラマが展示されており、興味深かった。

  坂本城、大津城、膳所城のみならず、長浜城、安土城、彦根城、長浜城など、さらに瀬田城もあった。

  瀬田城の城主は織田の家来、山岡景隆で本能寺の変の後、明智軍と瀬田の唐橋で交戦している。唐橋を焼き落とし明智軍の瀬田川渡りを遅らせ、安土城攻めを不成功に導いたといわれている。

山岡家 瀬田に根をはり 姓残る
(やまおかけ せたにねをはり せいのこる)