2020年1月6日月曜日

Fish Bread(お魚パン)

 
Iron Mould for Taiyaki
Two Pieces of Mould
Taiyaki

Walking 6.31 km, 8411 Steps
(Usual Course)

  今朝、孫の起きてくるなりの第一声は「お魚パンちょうだい」であった。昨夜のことを覚えていることにびっくりした。楽しみにしていたことがよくわかる。

  昨夜、遅くなったが作っておいてよかった。孫は1匹半を喜んで食べた。結局朝ごはん代わりになった。

  お魚パンは鯛焼きのことで、昨夜自分でも鯛焼きと言っていたが、自分の表現としてはお魚パンということと理解した。謎が解けた。

  そして車に乗って我が家を後にした。楽しい3日間ではあったが、帰った後はひと眠りということになった。

孫帰り 静けさ戻る 家の中
(まごかえり しずけさもどる いえのなか)

後記:アンパンマンのテレビ番組でお魚パンが出ているそうである。それを見てお魚パンと言い出したということが判明。今ではそれが鯛焼きであると認識していると思う。

2020年1月5日日曜日

Mah-Jongg(麻雀)

 Mah-Jongg
Zenzai (Sweet Soup made of red Beans
Handmade Buck Wheat Needle(手打ちそば)
 Panpkin & Mashroom Tempra
(カボチャとキノコ天ぷら)
Pumpkin & Mixed Vegetable Tempra
(カボチャと野菜かき揚げ天ぷら)

  孫たちは朝から近江神宮に参拝に出かけた。昼食後孫が昼寝をしたので、次女夫婦と共に麻雀をすることになった。久しぶりである。

  2時間ほどして孫が起きてきた。それで休憩としてぜんざいを作った。鯛焼きの餡が残っておりそれを使い、水とメイプルシロップを追加した。餅は年末に作った玄米餅を使う。

  次女夫婦は喜んで食べてくれたが、孫は食べず嫌いか、食べようとしなかった。

  後半戦を終わるとすでに夕方5時であった。急いで手打ちそばを作った。加えて野菜天ぷらも作って夕食を皆で食べた。そばは孫も喜んで食べた。

  夜寝る前に、孫はまたお魚パンが欲しいという。今朝、保管していた鯛焼きをちょっと食べて味を知ったようである。さらに確認すると、今度は鯛焼きという。

  ようやくお魚パンの正体が分かった。さっそくまた小豆を煮て餡子を作り、鯛を焼いた。それまでに孫は眠たそうであったので、明日の朝楽しみにといって寝かせた。

鯛焼きを お魚パンと 孫はいう
(たいやきを おさかなパンと まごはいう)

  孫は今日はぜんざいを食べなかったが、餡子は好きなようなので一度味を知ればまた欲しがるものと思う。次回再度作ってみたいと思う。

2020年1月4日土曜日

Kite Flying(凧揚げ)

Anpamman Kite
Kite Flying
Kite Flying (Video)
Walking 1.97 km, 1602 Steps
(Kite Flying at Yangasaki Lakeside Park)

  久しぶりに凧揚げを楽しんだ。孫にとっては初めての凧揚げではないかと思う。

  柳が崎湖畔公園は電線など障害物は何もなく、100mほどのタコ糸いっぱい使ってあげた。昔を思い出して、凧の引っ張る感触を味わった。

  公園では小さい子供達が凧揚げを楽しんでいるが、孫はまだ自分では上げられない。いずれ自分で上げたいと言い出すことと思う。その時には揚げるコツを教えたいものである。

正月の 凧揚げ今は カイト揚げ
(しょうがつの たこあげいまは カイトあげ)

2020年1月3日金曜日

Taiyaki(鯛焼き)

Taiyaki 
(Fish-shaped Pancake filled with Bean Jam)
 
Scones
Walking 4.97 km, 5431 Steps
(Oumi-Shrine)

  昨日電話で孫がお魚パンという。何のことかと思うと、どうも鯛焼きのようである。どこかで鯛焼きを見て、自分でそういう言い方をしたようである。

  本日さっそく鯛焼きを作った。小豆を炊いてあんこを作り、鯛焼き鉄板でいつもの通り焼いた。6匹完成した。

  続いてスコーンも作った。いずれもライスミルクを使っている。孫は大豆アレルギーのため豆乳が使えないからである。

  夕方には孫たちがやってきた。さっそく孫はスコーンを見つけ喜んで食べていた。鯛焼きは食べようとはしなかった。お魚パンは鯛焼きのことではないのかもしれない。また欲しがるまで置いておくことにした。

  本日の散歩は孫を連れて近江神宮方面へ出かけたが、京阪電車の踏切、電車庫に大変興味を示していた。

孫散歩 電車踏切 立ち止まる
(まごさんぽ でんしゃふみきり たちどまる)

  踏切では線路から離れるように言ったり、交差点では必ず止まり右左を見るなど、安全を意識しているのには驚いた。

  久しぶりに自家製の鯛焼きを美味しく食べた。孫の云うお魚パンとは何なのか、謎が残った。

2020年1月2日木曜日

First Visiting Shrine in new Year(初詣)

Oumi-Shrine Roumon(近江神宮楼門、Yeasterday)
 Long Line to Main Shrine from Roumon
 View from Main Shrine toward to Roumon
Stalls in front of Roumon
Entrance to Usayachiman Shrine(宇佐八幡宮、Today)
Shrine Gate(鳥居)
Front Approach (表参道)to Main Shrine
 
Sacred Dance Hall(舞殿)
 Gate to Main Shrine(本殿)
 Main Shrine
Walking Trajectry
(Usual Course + Usahachiman-Shrine)
Walking 7.32 km, 8187 Steps

  宇佐山の麓に近江神宮はあるが、元旦は夕方に近江神宮に初詣に出かけた。正月は大変な人出である。出店も出て賑わっていた。

  そして本日は、宇佐山の中腹にある宇佐八幡宮に詣でた。かなりの坂を登る必要があるが、参道にはほとんど人はいない。詣でる間、数人に出会っただけであった。

  もともと、宇佐八幡宮は宇佐山附近の地区の氏神である。その麓に昭和になって近江神宮が創建されている。以前この場所には茶畑などがあり、その土地所有者が土地を提供している。

  今では近江神宮がこの地区の地元神社のような感じである。宇佐八幡宮への参拝者は少ないが、その歴史は地元の人々で脈々と受け継がれている。

  バブルがはじけて30年。経済は下落し、政治の世界は理性とはほど遠いものになり、さらに大災害が続いている。無策のまま世の中が動いている。

  グーミン(愚民?)の、グーミンによる、グーミンのための世の中になっている。もう神頼みしかないのではとさえ思える。少しでも社会が真っ当な姿に向かってくれることを願った。

凋落の 日本を救う 神願う
(ちょうらくの にほんをすくう かみねがう)

2020年1月1日水曜日

Sunrise on New Year's Day(初日の出)

Fireworks in Biwa-Lake at New Year Midnight
 Sunrise Sightseeing Ships
 Peaple waiting for Sunrise at Yanagasaki Lakeside Park
Sunrising at Biwako-Lake (Videos)
Sunrise on New Year's Day from my Home
Walking 5.92 km, 6840 Steps
(Oumi-Shrine, Aeon, Branch)

  大晦日0時を過ぎると、琵琶湖では花火が上がった。琵琶湖に住んで4年になるが、今まで大晦日の夜には家にいることはなかったため、初めての経験であった。ヨーロッパの新年と同じような花火である。

  ひと眠りして朝7時ころに起きて初日の出を見守った。まもなく東の鈴鹿山脈から太陽が上がった。

  湖にはその陽光が映る。湖畔公園にはたくさんの人が、そして湖上には観光船二隻が運航している。

  災害、政治・経済の劣化など良いことがなかった平成の時代。今年こそより良い年になるよう願うばかりである。

災害に 政経劣化に 陽がのぼる
(さいがいに せいけいれっかに ひがのぼる)

2019年12月31日火曜日

Akechi Mitsuhide(明智光秀)

My Diary dated 2, 2, 1983
(Sentences after reading "Sanada Juyushi" written by Sasazawa)
Walking 6.25 km, 7459 Steps
(Usual Course)

  ブログを書き続ける中で、今年始めたことが2つある。一つは川柳風句を書くこと、それに若いころの日記を読み返しブログに載せることである。

  日記であるが、1983年2月2日の日記を読み返しブログにのせている。笹沢版「真田十勇士」の読後文を書いたものである。

  その中で、笹沢佐保は明智光秀が農民に殺されたとする歴史は間違いで、実際には生き延びたという説を述べている。殺されたのは影武者の進士佐久衛門で、伊勢助四郎と共に濃尾平野洞戸村へ逃げている。

  その後比叡山の僧、天海僧正となり、徳川家康に仕えたという。

  History(歴史) とは His Story のことで、権力者側から見た話である。権力者の都合の良いように書かれるのが通常である。

  日本書紀は壬申の乱で勝利した天武天皇が書かせたもの。同じように明智光秀が農民に殺されたとする歴史は、秀吉が事後書かせたもの。

  真実を知るには権力者の残した資料では片手落ちで、他のいろいろな資料をもって判断する必要がある。

  奇しくも来年はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が始まる。明智光秀をどう描くのか興味深い。

光秀の 生涯ドラマ 注目だ
(みつひでの しょうがいドラマ ちゅうもくだ)

  テレビのない生活をして久しいが明智光秀には興味があり、来年は You-Tube で成り行きを確認したい。

2019年12月30日月曜日

Kuretakeyu 2(呉竹湯2)

Tambabasgi Station of Kintetsu
 Front of Kuretakeyu
 Entrance of Kuretakeyu
 Shop Curtain (Noren) of Kuretakeyu
Announcement of Closing Kuretakeyu
 Inside of Kuretakeyu
 Keihan Electric Railroad Crossing near Kuretakeyu
Moving Trajectry
(JR Kyoto Station, Tambabashi, Kuretakeyu)
 Walking 6.82 km, 7907 Steps

  銭湯に入るのは60数年ぶりではないだろうか。温泉に入る機会はあっても、町の銭湯に行くことは子供時代以来なかったと記憶する。

  JR京都駅から近鉄で丹波橋に向かった。近鉄と京阪丹波橋駅はつながっており、京阪側から出て、歩いて5分ほどで呉竹湯である。

  60数年前と全く同じ場所である。暖簾がかかり、その左下壁に閉店の挨拶が張り出してあった。

  暖簾をくぐり引き戸から中に入る。靴を脱いでさらに引き戸を入ると、昔ながらの番台がある。ご主人がお客さんに対応している。

  450円を払って脱衣場に上がる。かなりのお客さんであるが、ロッカーは空いており、かごに衣服を入れる。昔と同じようにロッカーに入れるとゴム付きのカギがかけられる。足首にカギをつけた。昔も同じようにしていたことを思い出す。

  浴室に入る。昔は大きな湯船が一つであったと思う。今は小型の浴槽が3つ連なっており、サウナもある。浴槽の一つはジェット水流がでる。その水流を背中に当ててゆっくりと過ごした。マッサージしているようで気持ちがいい。

  30分くらい湯船で過ごしたであろうか。湯から上がると体はほこほこであった。

  帰りご主人に子供のころ来て以来ですと伝えると、もうこれで終了しますといっていた。お元気でと伝えて、呉竹湯を後にした。

  帰り近くの京阪電車踏切を通った。小さいころこの踏切近くでよく遊んだことも思い出される。ほこほこ気分で、近鉄に乗って帰宅した。

銭湯で 体ほこほこ 爽快に
(せんとうで からだほこほこ そうかいに)