2018年1月31日水曜日

皆既月食

琵琶湖に見える月

 月が欠け始める(午後8時50分ころ)
下弦の月状態
 半月状態
 三日月状態
 まもなく皆既月食
 皆既月食(午後9時50分ころ)
本日の散歩 距離3.4km、4447歩

  本日は皆既月食が見られた。マンションベランダから琵琶湖を見ると、東の空に月があがり、午後8時50分前から欠け始めた。

  その後、半月状態、三日月状態になり、午後9時50分ころには皆既月食となった。しかし、残念ながら少し曇り空でほとんど光は見えず、スーパーブルーブラッドムーンは見ることが出来なかった。

  月食を見るのは前回はいつであったか、全く記憶がない。本当に久しぶりの見学であった。

2018年1月30日火曜日

カトレヤ

カトレヤの花(台所)
カトレヤの花(台所)
カトレヤ(左)と胡蝶蘭(右)
本日の比良山地
 本日の散歩 距離 5.71km、7439歩
  年末に買ったカトレヤを台所に置いている。ようやく花が咲いた。華麗な花で部屋に潤いをもたらしてくている。

  柳川土手では秋には野菊が咲いているが、野菊は年若い可憐で清楚な女性を思い起こさせる。それに対してカトレヤは優美な成熟した貴婦人の雰囲気である。

  大津に引っ越しした時にもらった胡蝶蘭もカトレヤと並べて置いている。花が落ちた後、昨年は花をつけなかった。今年こそは花を見たいと思っている。

  本日もいつもの散歩コースを歩いたが、この1週間の寒波で比良山系は真っ白で、スキー場も賑わっているという。寒波はいつまで続くのだろうか。

  まもなく暦のうえでは立春である。

2018年1月29日月曜日

白河天皇陵

白河天皇陵の表示
油小路通りに面する白河天皇陵
 石標
 白河天皇陵

  城南宮の東、油小路通りを北に行くとすぐに白河天皇陵がある。

  鳥羽離宮を造営し、8歳になった第一皇子を堀河天皇として、自分は上皇になりこの鳥羽離宮を拠点に院政をしいた。その後、孫(鳥羽天皇)、曾孫(崇徳天皇)3代に渡って幼主に代わって43年間、院政を行う。

  白河天皇が即位したときは藤原一族の摂関政治が続いており、親政を目指していた。父である後三条天皇が藤原一族と関係のある白河天皇の異母弟親王の息子を皇太弟と定めた。しかし若くして亡くなり、その時を利して禅譲し実子を天皇につけ堀河天皇とし、藤原一族の影響を弱めるのに成功している。
  白河天皇御陵のある京都南西地区は子供のころはのどかな田園風景が広がるところであった。しかし今では、すぐ南600mのところには京セラの本社があり、任天堂本社も北2kmのところに、また西3kmのところには日本電産本社がある。

  京都で生まれた世界的企業の集まるビジネスの町になるとは、白河天皇も御陵の中でびっくりしていることと思う。

2018年1月28日日曜日

鳥羽離宮跡

鳥羽離宮跡公園
鳥羽離宮南殿跡の説明
南殿建物の復原俯瞰図
 
鳥羽離宮跡・鳥羽伏見の戦いの石碑
 石碑のある丘(秋の山)
 公園内の池
 公園全景
(突き当りの林は秋の山、離宮庭園の築山であった)
本日の散歩 5.3km、4635歩

  小枝橋から赤池に向かう鳥羽街道(千本通り)の左手に鳥羽離宮跡公園がある。

  白河天皇が造成し、院政時代に拠点としたところで、その後も城南離宮とも呼ばれ天皇の別荘として天皇がたびたび訪れる場所であった。

  公園になっているところは南殿があったところ。このほか北殿、東殿、田中殿、馬場殿などがあったという。

  離宮は鴨川に沿っており、当時の様子は平家物語に歌われている。

「秋の山の春風に白波瀬に祈懇 柴鴛白鷗逍遥す」

  広々とした水辺に鳥が戯れている光景が思い浮かぶ。

2018年1月27日土曜日

戊辰戦争開戦から150年

鳥羽伏見の戦いの説明図(鳥羽離宮跡公園内)
本日の散歩 4.84km、6793歩

  本日1月27日は鳥羽伏見の戦いが始まり、1986年に戊辰戦争が始まった日となっている。

  鳥羽伏見の戦いが初戦で、1987年6月の函館戦争まで、1年半に渡って新政府軍と旧幕府軍が戦いを繰り広げた。

  開戦から150年が経ち本日は記念すべき日である。記念して、本日伏見区役所ホールで演劇「幕末・鳥羽伏見の戦い」が催されるという。

  この戦いの後、明治維新は加速するのであるが、幕藩体制からの脱却には大変な血が流されたという事実がある。戦後の民主政治も同じように先の戦争での何千万という人の犠牲が背後にあることと同じである。

  変革には犠牲が伴うのが歴史であるが、これからの世界は犠牲を伴わずに理性的判断から変革されることが望まれる。

  過去の歴史では民主主義も決して理性的判断で進むものではない。ヒットラーのようにドイツワイマール民主主義のなか、嘘と策略で民主主義を悪用し政権を奪取、その後は独裁体制を敷き第二次世界大戦に突き進んだ。

  このように間接民主政治では議席さえとれば悪意に満ちた法案でも成立が可能であり、反理性的方向に進む可能性が十分にある。

  今の世の中インターネットという有力な手段がある。インターネットを駆使し、政治は個々の案件について国民投票で決める直接民主制度が可能と考える。国会という閉鎖的な政治家集団による独走を阻止することも可能である。

  より良き社会を実現させるには国民一人一人が直接政治に参加する、直接民主制度に変革するのがこれからの方向ではないかと考えている。

  今の政治家たちからはこのような提案は出てこないのが現実で、まずは地道な国民運動で進めるしかないようである。

2018年1月26日金曜日

小枝橋

鴨川に掛かる小枝橋
 
鳥羽伏見の戦い勃発の地
 旧小枝橋近くにある石碑
 市バス赤池バス停
 赤池のあったところ(今は住宅街になっている)
 近くにある赤池集会所
本日の散歩(JR大津駅)
散歩の距離 9.32km、歩数11257歩

  九条千本にある羅生門跡から千本通を南下すること約4kmのところに、鴨川を渡る小枝橋がある。昔はバスが1台しか通れない小さな橋であった。今は新たに幹線道路ができて橋も少し北側に移動し、大きなものになっていた。

  旧小枝橋鴨川土手を少し下ったところに鳥羽伏見の戦い勃発の地との説明板がある。そしてその下には鳥羽伏見の戦い跡の石碑が立っている。

  大阪から幕府軍が京都に進軍、鳥羽伏見の小枝橋まで来たが新政府軍が迎え撃ち、ここから鳥羽伏見の戦いが始まっている。

  付近で戦闘がくりひろげられたくさんの血が流れ、近くの池は真っ赤に染まった。今はその池は住宅地になってしまっていたが、大学生のころまではこの池は存在していた。

  今は地名として赤池という名だけが残っている。今も市バスの赤池停留所もあり、赤池集会所も見られた。

  この戦いが戊辰戦争の始まりで、結果新政府軍が勝利し明治新政府を確立することとなる。

  大学生時代市バスで毎日赤池を通り学校へ通っていたこともあり、たいへん懐かしく感じる。

2018年1月25日木曜日

羅城門跡

唐橋羅城門公園
 
羅城門遺跡
 羅城門跡の説明
 羅城門跡の位置
 羅城門復原イラスト
本日の散歩 8996歩

  羅城門といえば羅生門ともいわれ、芥川龍之介の小説、あるいは黒澤明の映画を思い出す。平安京の朱雀大路の南中央の正門である。正面33m、奥行8mの二重閣瓦屋根造の建物であったといわれている。

  昨日は六孫王神社から千本通りを南下し、九条通り千本にある唐橋羅城門公園に至った。ここに羅城門があったとして石碑が立っている。この羅城門の東に東寺があり、西には西寺があった。西寺も今はなく、西寺児童公園に石碑があるだけという。

  子供の時には羅城門跡は身近なものであったが、歴史的なことは知る由もなかった。歴史を習ったり、小説などで羅生門という名前を知ることにより、有名な建物であったことを知ることになった。

  昨日はこの後千本通りをさらに南下し、鳥羽伏見の戦いの勃発の地、小枝橋まで歩いた。

2018年1月24日水曜日

六孫王神社

 六孫王神社
 清和源氏発祥の宮の看板
 一の鳥居と二の鳥居(奥)
 鯉魚塚
 神龍池
 唐門
 六孫王神社の説明
 拝殿
太鼓橋
 源経基歌碑
源経基歌碑
ウォーキングの軌跡
(六孫王神社、羅城門跡、小枝橋、赤池、鳥羽離宮跡、白河天皇陵)
ウォーキングの距離 20.86km、歩数 24088

  お昼頃に孫を京都駅で見送り、その後京都南西部をウォーキングすることにした。

  京都駅から八条通りを西に向かうと、15分程で六孫王神社に達する。この神社の存在は小さいころから知っていたが、立ち寄るのは初めてであった。

  清和天皇の第六皇子の子である源経基(つねもと)を祀っている。第六皇子と清和天皇の孫ということで六孫王神社という名前になっている。

  この神社のある場所は、経基の邸宅であった八条亭の跡といわれている。経基は清和源氏の始祖であり、後裔には、木曽義仲、源頼朝などそうそうたる名前が続く。 

  鳥居をくぐり参道を進むと鯉魚塚があり太鼓橋を渡る。唐門の前に至るが、拝殿には入ることは出来ないので、唐門前で参拝することになる。 

  この神社は、川西市の多田神社、羽曳野市の壷井八幡宮と合わせて源氏ゆかりの源氏三神社として知られている。

  この後南下し、羅城門跡、小枝橋、赤池、鳥羽離宮跡、白河天皇陵を訪れて、京都駅に戻った。歩いた距離20.86km、歩数24088の記録であった。