2016年11月15日火曜日

大津京跡

 錦織地区
大津宮錦織遺跡の説明
第一遺跡
第一遺跡の説明
内裏南門復原図
柱跡
第二遺跡
 第二遺跡の説明
内裏正殿復原図
 柱跡
柿本人麻呂の歌碑
 柿本人麻呂歌の説明
 第八遺跡
 第八遺跡の説明
第八遺跡 
大津京シンボル緑地
大津京シンボル緑地の説明
 天智天皇の歌碑
柿本人麻呂の歌碑
額田王の歌碑
額田王歌の説明
シンボル緑地の銀杏
柳川の紅葉
柳川の紅葉
柳川の紅葉

  近江神宮の南地区は錦織という。奈良時代に朝鮮半島から織物技術を持った人々が移住したことから、この地名になったといわれている。

  この錦織地区は大津京が築かれたところでもある。日本書紀に記載があるが、その実際の場所はいろいろな説があり確定できないままであった。40年ほど前に錦織地区の発掘が行われ、柱跡などの遺跡が発見されその場所が確認された。

  第一遺跡には南門の柱跡が発見され、第二遺跡には内裏本殿跡も発見されている。内裏の東南端の遺跡は第八遺跡として保存されている。

  飛鳥から大津京に遷都してわずか5年半後に天智天皇(天皇になる前は中大兄皇子)は亡くなり、その後後継者争いの壬申の乱が起こる。勝利した天智天皇の弟、大海人皇子は天武天皇として再び都を飛鳥に移したため、約6年という短い期間の都であった。そのため記録が少なく長い間謎の都であったようだ。

  天智天皇を祀る近江神宮の南に柳川が流れており、紅葉が鮮やかな季節になっている。その柳川に隣接して大津京シンボル公園がある。ここには大津京と関係のある、天智天皇、額田王、柿本人麻呂などの歌碑がある。また銀杏が黄色く輝いていた。

2016年11月13日日曜日

石山寺

 京阪電車石山寺駅
 石山寺正面
 東大門
 仁王像(左)
仁王像(右)
 珪灰石
天然記念物
珪灰石の説明
 珪灰石
本堂内紫式部展示
 多宝塔
 紅葉
 紅葉
 紅葉
 光堂
光堂からの紅葉
 紫式部像
 紅葉
 紅葉
 羊歯の群生
 西国三十三石像
 紅葉
 瀬田川
瀬田川観光クルーズ

  高校時代の古文教材は、1年は徒然草、2年は枕草子、そして3年は源氏物語であった。紫式部はこの石山寺で源氏物語の創作にあたったといわれている。

  京阪電車の石山寺駅から参道を歩いて東大門に向かった。門の両サイドには仁王像がにらみを利かしている。600円を払って入る。階段を登ると天然記念物の珪灰石に出会う。石山寺の由来の石である。そして本堂に上がる。本堂には紫式部が源氏物語を書いたという展示がある。

  さらに登ると多宝塔に至る。そこから坂道を散歩出来るようになっている。小高い山の頂上には光堂があり、その眼下には鮮やかな紅葉が広がる。

  そして少し降りたところに、紫式部の像が置かれている。三十三の石像が置かれた山道には羊歯の群生している場所がある。

  石山寺は今までも何回か来ているが、この紅葉の季節に来るのは初めてであった。ただ、あと1~2週間後にはもっと赤一面の山になるのではないかと思われた。

  近くに流れる瀬田川には観光船クルーズが行き来しており、観光客でにぎわっていた。ようやく関西地区も紅葉シーズンとなったようだ。

2016年11月9日水曜日

湖面に架かる虹
水鳥

  今日は来客があった。その語らいの中で居間から虹が見えたので、カメラを取り出し鮮やかな七色を写真におさめた。空から湖面に架かる虹である。近くの湖面には鴨、カイツブリなどの水鳥、湖岸には鷺などが戯れている。

  得意のマクロビスコーンマクロビ鯛焼きと三年番茶でおもてなしした。美味しいと喜んで食べていただいた。スクリーンで最近のブログ写真を紹介するなどして楽しく過ごした。

  お土産にもスコーンと鯛焼きを持って帰ってもらった。おそらくお孫さん達にも喜んでいただけるものと思う。

2016年11月3日木曜日

宇佐山城跡

 自宅から見る宇佐山頂上(パラボラアンテナ)
 柳川から見る宇佐山頂上
 登り口(宇佐八幡宮鳥居)
道標 
 山道
「宇佐山城跡」表示
 宇佐山城跡
 石垣跡
民放テレビ中継局
 民放テレビパラボラアンテナ
NHKテレビ中継局
NHKテレビパラボラアンテナ
中継局用軌道
琵琶湖
(手前は湖西バイパス道路、その上は坂本の町、対岸奥は伊吹山)

  近江神宮は宇佐山の麓にあり、近江神宮沿いの細い道を100m程歩くと宇佐八幡宮の入口に至る。そこから登り坂を上がると鳥居があり、宇佐山中腹まで八幡宮の参道となる。本殿の手前右には道標があり宇佐山への登り口となる。

  かなり急な坂もあり、ゆっくりと登山道を登る。30分ほどで頂上に達する。頂上にはさらに階段があり、その上は本丸跡であるが今ではテレビ電波中継所になっている。この中継所のパラボラアンテナは自宅からも見えている。

  階段の上がり口手前には台地があり、ここからは坂本地区、琵琶湖、さらには対岸の伊吹山も望める。石垣がわずかに残っているだけで城の姿は全くない。

  宇佐山城は織田信長が森可成(森蘭丸の父)に命じて作らせた城である。越前、湖北から京都への通り道として重要な場所のため築城した。朝倉義景、浅田長政の連合軍が京都へ向かうとき、南下を阻止すべく森可成は信長の弟である信治の援軍を得て共に戦うが、可成、信治とも討ち死にする。この時延暦寺僧兵は連合軍に加担しており、後の信長による延暦寺焼き討ち事件の元になる。

  摂津に攻めていた信長は、落城するまでに急いで宇佐山に駆けつけ反撃し和議に持ち込む。森可成亡きあと信長は城主に明智光秀を命ずる。そして光秀は信長に命じられ延暦寺焼き討ちを実行する。信長はその褒美に光秀に坂本城を与え、宇佐山城は廃城となり現在に至っている。

  今回、学校では習わない、宇佐山城跡に関する戦国時代の歴史を初めて知ることとなった。今日は文化の日であるが、歴史文化を知ることは大変興味深いことと思う。