別子銅山跡の位置(愛媛県新居浜)
別子銅山東平(とうなる)地区の説明
別子鉱山鉄道の走っていたライン
貯鉱庫跡の説明
貯鉱庫跡
貯鉱庫の当時の写真
索道基地跡の説明
索道基地跡
索道基地の当時の写真
索道基地上部の建物
インクライン跡の説明
インクライン跡の階段
接待館の説明
接待館のあった場所
当時の接待館の写真
先週今治玉川のマグノリアで昼食を取った後、新居浜にある別子銅山跡に向かった。別子山の麓にはマイントピア別子という道の駅があり、そこを過ぎてさらに山道を上がる。
トンネルを何回も通り過ぎると峠に至る。標高972mとの表示があった。ここで引返し、東平方向への細い山道に折れる。
車1台しか通れないところもある曲がりくねった道の突き当りに別子銅山跡の東平(とうなる)地区があった。
東洋のマチャピチュといわれるだけあって、山の上に古いレンガの建物が残っている。ここからは新居浜の瀬戸内海が望める。
この銅山は1691年から住友グループにより採掘が開始されている。1973年に閉山になるまで産銅量は65万トンに達する。
東平は標高750mに採鉱本部が置かれたところで、付近には5000人近い人が住んでいて、山の町になっていた。
貯鉱庫、索道基地、物資を運ぶインクライン跡、接待館などのレンガ造りの建物が残っている。
ガラス板に鉱山鉄道が走っていたラインが引かれ、ガラス越しに向かいの山を見るとその鉄道が走っていた軌道が分かるようになっている。
東平は標高750mに採鉱本部が置かれたところで、付近には5000人近い人が住んでいて、山の町になっていた。
貯鉱庫、索道基地、物資を運ぶインクライン跡、接待館などのレンガ造りの建物が残っている。
ガラス板に鉱山鉄道が走っていたラインが引かれ、ガラス越しに向かいの山を見るとその鉄道が走っていた軌道が分かるようになっている。
今は緑一面の山であるが当時はほとんど禿山状態であったことは足尾銅山鉱毒事件から想像できる。
古河グループが開発した足尾銅山での鉱毒事件は、命をかけて田中正造が鉱毒被害を訴えたことにより世間に知られることになった。この別子銅山でも同じように鉱毒被害があった。
住友グループにしても、古河グループにしても人々の命を犠牲にして大きな企業になっていったということである。
過去の過ちを正しく認識しないことにより、その後も水俣病、アスベストなどの公害問題が相変わらず続発している。
今も各地でまた同じような過ちを繰り返すような政策がまかり通っており、畜生的生き方の人間の所業と思わざるを得ない。歴史を学ばないことに怒りさえ覚える。
今も各地でまた同じような過ちを繰り返すような政策がまかり通っており、畜生的生き方の人間の所業と思わざるを得ない。歴史を学ばないことに怒りさえ覚える。
この後、松山自動車道、高松自動車道を走り、鳴門海峡に向かった。
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