百穴古墳の道標
百穴古墳群
「百穴古墳群」の説明
「百穴古墳群」の図面
古墳
古墳
古墳内部
際川
際川の紅葉
際川の紅葉
志賀の大仏
志賀の大仏
大仏御詠歌
「志賀の大仏」の説明
志賀峠への道標
崇福寺跡の道標
崇福寺跡への山道
金堂跡、塔跡、弥勒堂跡への道標
「 崇福寺跡」の説明
金堂、講堂の説明
金堂跡と講堂跡の説明図
京都北白川と大津を結ぶ道といえば現在では県道30号線山中越であるが、昔は志賀越道であった。大津は志賀里が入口で、一部30号線とかぶるが同じく北白川につながっている。この道は今でも山道として残っているが、志賀峠付近のがけ崩れで通れなくなっているという。行けるところまで行ってみようとトライした。
志賀里からゆっくりとした坂を上がると間もなく看板がある。それによると日本のお茶が初めて栽培された所という。805年に僧永忠が唐から種を持ち帰った。今は一般人の庭のようで、茶の植物らしいものも見られた。
際川に沿ったところに百穴古墳群がある。今から1400年前の古墳時代後期の小型古墳群である。古墳自体の形、埋葬品などから中国、朝鮮からの影響が強いといわれている。近くの際川は紅葉がきれいである。
山道となりしばらくすると大仏に出会う。志賀の大仏という。同じような大仏が北白川側にもあるそうで道中の安全を祈っているという。大仏講が作られ大切に守られている。
そして山道の分岐に到着する。左が志賀峠の方向、右が東海自然歩道で崇福寺跡への方向である。まずは、崇福寺跡の方へ行くことにした。しばらく歩くとさらに分岐があり、左崇福寺跡、右弥勒堂跡で崇福寺跡に向かった。
崇福寺跡は3つの尾根の上にあり、一つは金堂、講堂の跡、そして谷を隔てて小金堂と塔跡、さらに谷を渡り弥勒堂跡がある。尾根を行き来するには急な坂を上り下がりする必要があり、かなり疲れた。昔の人はタフだったのであろうか。
この寺は天智天皇が大津京に移ってすぐに築かれている。弥勒堂跡の尾根の下を流れる川に金仙滝がありその横に洞窟がある。霊窟と呼ばれている。天智天皇がある日、大津宮の北西方向に霊窟があるとの夢を見て、行ってみると実際に洞窟があった。そこに僧侶がおり、この辺りは仙人の住むところと伝えたとのこと。このことが崇福寺建立のきっかけになったとされている。
弥勒堂跡の尾根を下りると東海自然歩道に出る。北へはケーブル延暦寺駅につながっているが、反対の方向の志賀越道に戻った。かなり暗くなってきたので、今日はここまでとした。
帰り道、東海自然歩道に沿って進むと、南滋賀町廃寺跡遺跡に出くわした。この寺の由来は不明のようであるが、発掘された瓦、土器などから白鳳から平安時代末期まで存在していたとみられる。特に瓦は、蓮華紋方形軒先瓦が出土しており、近くの榿木原遺跡の登り窯で作られていたという。
今日は日没になり志賀越道の峠まで行くことが出来なかった、また近いうちにトライしたいと思う。