2017年12月19日火曜日

東京ミッドタウン日比谷

 
建設中の東京ミッドタウン日比谷ビル
東京ミッドタウン日比谷ビル
(右奥 帝国ホテル)
日比谷シャンテビル(左)と東京ミッドタウンビル(右)
日比谷シャンテビル
マクロビレストランチャヤ
(日比谷シャンテビル)
チャヤ入口
 チャヤ内部
 テンペバーガーセット
 玄米サラダプレート
 和栗モンブランと穀物コーヒー
 スコップケーキ
 豆乳入り三年番茶
歩いた軌跡
歩数 10648

  現役時代よく訪問していた会社の入っているビルに、日比谷の三信ビルがあった。その会社は杭打ち偽装で問題になった会社であるが、すでにお茶の水界隈のビルに移動している。

  本日久しぶりに日比谷付近を散策した。工事中であった三信ビルの跡には、すでに35階建ての高層ビルが出現していた。東京ミッドタウン日比谷という名前のビルである。来年の3月開業に向けて準備されている。高さ192mと向かいにある日比谷シャンテビルの倍の高さである。

  日比谷シャンテも、向かいに新しいビルが出来ることからリニューアルをしており、以前からよく食べに来ていたマクロビレストランチャヤも新しい装いに変わっていた。

  地下二階と以前と同じ階にあるが、場所は移動していた。ちょうど昼時で満席のため、しばらく並んで昼食にありついた。

  メニューも少し変わっていたが、テンペバガーセットと玄米サラダプレートをとった。味は変わりなく美味しく、デザートには和栗モンブランとスコップケーキ、お茶は穀物コーヒーと豆乳入り三年番茶で締めた。

  いつものイチゴショートケーキはなく、スコップケーキになっていた。初めて食べたが同じような美味しさであった。

  スコップケーキとは、深皿などにスポンジケーキやクリームを敷き詰めた柔らかいケーキで、ナイフで切るのではなく大型のスプーンですくって取り分けるケーキである。
  
  食事の後、東京駅丸の内、有楽町を散策し、メトロ千代田線で帰宅した。

2017年12月18日月曜日

初めての靴

 雪の伊吹山(新幹線から)
富士山(新幹線から)
富士山(新幹線から)
孫へのおみやげ
初めての靴
 本日の移動軌跡(新幹線)
歩数 7202

  久しぶりに東京に向かった。天気が良く、途中新幹線で伊吹山富士山を見ることが出来た。

  品川で降りて、川崎の孫の家を訪れた。元気に育って、つかまり立ちができるようになっている。さそっくおみやげを見せた。初めての靴である。まずは家の中ではく靴である。

  はかせるとサイズはちょうどであった。外用の靴がまた必要になるが、それまではこの靴で慣れてくれるものと思う。

  夕方には、湘南新宿ラインで池袋まで行き、山手線で東京自宅に戻った。東京は電車路線、建物、広場などどんどん変わっていく。

  年末には静かな琵琶湖畔にまた戻るが、しばらく東京の新しい刺激を味わいたいと思う。

2017年12月17日日曜日

昼顔の花消える

 すっかり葉が枯れ落ちたサクラの木(柳川土手)
 すっかり葉が枯れ落ちたサクラの木(柳川土手)
昼顔の花が無くなる(柳川土手)
 昼顔の花が無くなる(柳川土手)
 昼顔の花が無くなる(柳川土手)
 近江神宮楼門の門松
門松
散歩の歩数 6533

  6月初めに柳川土手に一輪の昼顔の花が咲いた。それから7か月、ずっと花をつけてきたが、とうとうこの寒さのため花が無くなった。

  すでに柳川のさくら、もみじなどの落葉樹は枯葉が落下し、枝だけになってしまっている。昼顔はまだ緑の葉をつけているが、徐々に枯れつつある。いよいよ柳川の土手から緑が消えそうである。

  近江神宮楼門前に門松が据えられた。年末も近づき、本格的な冬の季節になった。

2017年12月16日土曜日

大海人皇子

 JR大津京駅前にある万葉歌碑
万葉歌碑
 
 額田王の歌
大海人皇子の歌
歌の説明
本日の歩数 7100
(京都ムモクテキカフェCHOICEに行く) 

  JR大津京駅前にも万葉歌碑が置かれている。額田王と大海人皇子の歌である。

「あかねさす紫野行き野守は見ずや君が袖振る」

  この額田王の歌に対して、元夫の大海人皇子の返歌が続く。

「紫草にほえる妹憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」

  宮廷行事である薬草を採取する薬狩りの後の宴会で詠まれた歌。私に合図したら人に分かるではありませんかとたしなめる額田王に、元夫の大海人皇子が、いや人妻なればこそですよと答えている。

  大海人皇子の妻だった額田王は当時の天皇で大海人皇子の兄である天智天皇に召し抱えられる。しかし大海人皇子はまだ未練があるようで、その気持ちを歌にしている。三角関係がよくわかる歌である。

  壬申の乱の後、天武天皇になった大海人皇子は天智天皇の娘、すなわち姪を皇后とする。この皇后が天武天皇死去の後、持統天皇になるのである。今では認められない結婚が天皇家ではあったということである。

2017年12月15日金曜日

新知恩院

 新知恩院の門
新知恩院石標
新知恩院全景図

境内(左 鐘つき堂、右 本堂)
門入った右にある鐘つき堂
本堂
サイクリング 12.65km、歩数 1085
(大津市内買い物他)

  昨日は融神社の後、伊香立の中心にある新知恩院を訪れた。門のある階段を上がると、右に鐘つき堂がある。雪は止んでいるが、境内は真っ白の世界であった。雪に足跡を付けて境内を歩く。

  この寺は、応仁の乱の時に知恩院が焼かれ、京都から逃げてきて創建されたもの。法然上人像も持ち運ばれ本堂に安置されている。そして、数年前に木製釈迦涅槃像が発見されている。快慶、あるいはその弟子による作といわれている。

  この像は今春、大津歴史博物館で特別展示され、その時訪れて現物を見ている。非常に小さな涅槃像で携帯してどこででも拝めるように出来ているという。これも京都知恩院から逃れてきたものと思う。

  このほか六道図など寺宝がたくさんあり、年に一回虫干し会をして保存に努力しているそうである。

  この後、国道477号線に出て、堅田に向かって自転車で走った。帰りは下りばかりで楽であるが、寒さだけが身に堪える。この477号線は京都・途中と琵琶湖大橋を結ぶ幹線で、トラックなどの交通量は激しかった。

  知恩院が疎開したときも、京都からこのルートで逃れてきたのではないかと思う。  

2017年12月14日木曜日

融(とおる)神社

 国道161号線から県道315号線を西に向かう
県道315号線
 県道47号線で雪で覆われた仰木の棚田を見る
融神社石標
 融神社の説明
 由緒
 石灯篭と参道
 鳥居
鳥居の扁額に書かれた 融神社
 二の鳥居
 歌碑の説明
 歌碑
 舞殿(奥に左右二つの社殿がある)
 源融をお祀りする社殿(右)
 源融の母(大原全子)を祀る社殿(左)
国道161号線から県道315号線・47号線へ
(融神社経由新知恩院へ)
往き最大高度 190m
新知恩院から国道477号線を堅田へ
帰りの高度推移(新知恩院⇒堅田)
サイクリングの距離 23.7km
+10km(堅田⇒自宅)

  今朝は全国的に寒波が押し寄せ、琵琶湖も北部では雪である。大津でも早朝には雪が降っていたが、午後には雪・雨ともやみサイクリングに出かけた。

  国道161号線を北上し、雄琴を過ぎたところから西に向かう県道315号線を上がった。最初傾斜は緩やかであるので自転車をこいで走れるが、県道47号線手前でとうとう歩いた。47号線を走ると雪に覆われた仰木の棚田が綺麗に見える。

  何回かアップダウンを繰り返し、伊香立のはずれにある融神社に着いた。この神社は、源氏物語の光源氏のモデルである源融をお祀りしている。

  嵯峨天皇の子である源融は京都六条河原近くに邸宅(現在は本覚寺付近)を持っていたが、閉居としてこの地にも住んでいた。死後鏡を埋めたといわれ、平安中期になってそれが見つけだされその鏡と融、それに母であるを大原全子を祀って神社が創建されている。

  その後、信長の延暦寺焼き討ちの際に焼失したが再建されて今に至っている。

  源融は京都六条河原に住んでいたことから河原左大臣ともいわれており、その名前で百人一首にも選ばれている。

  この後、伊香立の中心地にある新知恩院に向かった。