2017年2月9日木曜日

雪に耐える野花

 柳川土手の水仙
 柳川土手の水仙
 柳川土手の水仙
 柳川土手の野花
 柳川土手の野花
 雪の柳が崎
 餌をとる水鳥
 雪降る湖面の水鳥
 雪降る湖面の水鳥
雪の中の観光船

  今日は朝から雪模様である。雪が降る中、いつもの散歩コースを歩く。

  立春も過ぎ、柳川土手では野花が咲き始めていたが、この寒い中で耐えているようだ。雪をかぶりながらも生命力の強さを見せている。

  柳が崎では水鳥もこの寒さにもかかわらず餌をとったり、元気に泳いでいる。観光船は雪模様でも運航しているが、ほとんど視界はなく観光客にとっては運の悪い日となった。

2017年2月8日水曜日

びわこ競輪場跡

びわこ競輪場跡(自宅マンションから)
入場口跡
競輪場内とスタンド
競輪場内とスタンド
競輪場内とスタンド
近江神宮外苑運動場の表示

  自宅マンション西側はびわこ競輪場跡である。競輪が廃止されて5年ほど経つという。毎年この建物維持に2500万円ほどかかっているとの情報である。

  もともと近江神宮外苑であるが、跡地がどうなるのか見守っていた。ようやく大津市から再開発の公布があった。それによると、敷地を民間業者に期間を定めて貸与し、建物の解体と業者による新たな事業、それに一部緑地造りを任せるというもの。貸与期間終了後は業者が更地にして市が最終的に緑地にするという。

  再開発提案申請期限は3月下旬。4月には再開発案と業者を決めるとの計画である。現状にしておくだけでもすでに1億円以上の税金が浪費されている。解体だけで億の単位の金がかかるのであろう。その経費を捻出するための方策のようだ。

  国関係の業務に携わっていたことがある。事業を募集するときには事前にある業者と話が進んでおり、ほぼ煮詰まったところで公に募集することになる。結果としてその事前協議したところに決まることが多い。

  東京都の築地移転、東京オリンピックもすべてこの構図である。それに経験したことであるが、公の工事は、私的会社の工事と比べてその単価を2倍以上するというのが当たり前になっている。

  すでに1億円の税金が使われており、今回の再開発で税金の無駄遣いがないよう願うばかりである。

2017年2月7日火曜日

平安神宮

平安神宮鳥居
 平安神宮石柱
平安神宮の説明
応天門
 応天門
社殿全景
 大極殿
大極殿説明
左近の桜
左近の桜の説明
右近の橘
(養生のため囲われている)
 右近の橘の説明
 白虎楼
白虎楼の説明
蒼龍楼
蒼龍楼の説明
ロームシアター京都(旧京都会館)
メインホール(旧第一ホール)
サウスホール(旧第二ホール)
パークプラザ
粟田口刑場跡の説明
粟田口刑場跡
牛車道の石碑
牛車道
紅梅(山科疎水)

  京都四条河原町に行く用があり、サイクリングも兼ねて出かけた。その帰り、岡崎の平安神宮を久しぶりに訪れた。

  蹴上高台から平安神宮の鳥居を写真におさめているが、近くで見ると相変わらず壮大な鳥居である。応天門から入ると、大極殿全体が視野に入る。左近の桜、右近の橘が両サイド手前に植えられている。建物の両側の端には、白虎楼、蒼龍楼があり、平安京の大内裏を再現させている。

  平安神宮は明治時代に桓武天皇を祀って建立されている。有名な時代まつりはこの神社の祭礼である。お参りして、近くの岡崎公園を歩いた。

  学生時代、岡崎といえば京都会館である。音楽をよく聴きに来たり、演奏会に出たりなどの記憶がある。中学音楽祭の時には、合唱と独唱をしたことがある。第一ホールの大ホールで歌っている。今では名前がロームシアターになって、第一ホールはメインホールに名前が変わっていた。小ホールである第二ホールはサウスホールになっている。それに昔なかったパークプラザが出来ており、カフェ、本屋などが入っていた。

  帰り、旧東海道日ノ岡峠の粟田口刑場跡、牛車道跡を見て、山科疎水道に入った。一燈園近くの疎水道の紅梅が花をつけていた。今日は小雪が舞うときもありまた寒い日になったが、春は着実に近づいているようである。

2017年2月6日月曜日

草津宿

 旧東海道(矢倉立場付近)
 矢倉立場の説明
 歌川広重の矢倉うばが餅屋の浮世絵
 矢倉のうばが餅屋跡の建物
 旧東海道矢倉立場にある道標(右 矢橋道)
 草津の政所
 草津の旧政所付近
草津宿の表示
 草津宿本陣(左 関札 近衛殿御休)
本陣建物
 関札の説明
 草津宿本陣の石柱
 東海道五十三次の説明
旧東海道分岐
(左 中山道、トンネル上は旧草津川)
分岐道標
道標の説明
トンネル入り口の看板
トンネルの由来の説明

  大津には取引銀行がなく草津にあるとのことで自転車で草津に向かった。国道1号線から旧東海道に入った。まもなく矢倉立場という看板に出会う。ここは草津宿南に続く矢倉村の茶店のあったところである。ここで旅人が立ち寄ったということで名前がついている。名物のうばが餅を食べたとのことで、そのうばが餅屋を広重が浮世絵にも描いている。

  ここには道標があり、折れると矢橋方向になる。琵琶湖矢橋湊につながり、船で大津に行ける矢橋の渡しがあった。東海道の唐橋を通って大津に行く道もあり、「急がば回れ」の語源になったところである。唐橋を渡る距離のある陸路の方が、湖が荒れることもある不確実な渡しよりも結局は早いということである。

  草津宿の大きな看板手前に、政所という表示がある。ここは宿場の宿などの管理と、荷物検査を実施する場所であった。

  そして草津宿本陣に到達する。門には関札がある。関札は当時休泊する公家・武士などの標識として使われていた。本陣のすぐ近くが分岐路となっている。左が中山道である。すぐにトンネルがあるが、上は天井川である旧草津川である。昔は川を越える必要があったが、明治時代にトンネルが出来て便利になったそうだ。

  トンネルを過ぎるとすぐに商店街があり、JR草津駅になる。ここで用事を済ませて帰路についた。