2016年11月20日日曜日

Vegan Gourmet Festival

梅小路公園の表示
Vegan Gourmet Festivalの案内所
Vegan Gourmet Festival
Vegan Gourmet Festival
Vegan Gourmet Festival
きっちんgenマクロビオティック
車麩カツ巻き寿司
握り寿司
マクロビ弁当
Vegecafe&Dining TOSCA
けんちん汁
CHOICEの表示
CHOICE
浮島ガーデン
鯛焼き屋
ヨガ教室
京都鉄道博物館
旧二条駅舎
庭園入口の紅葉
公園の紅葉
市電カフェ
知恩寺門(収穫感謝祭の横幕)
百万遍念仏の石碑
百万遍知恩寺の説明
境内の祭り
ライブ演奏
祭りのテント

  本日京都梅小路公園でVegan Goutmet Festivalが開催されているとのことで、朝から出かけた。この梅小路公園は子供のころは蒸気機関車の操作場、大きな貨物駅があったところである。今では水族館、芝生広場、庭園、市電カフェ、鉄道博物館、旧二条駅舎などがあり、観光客で大変賑わっている。

  東京代々木公園でのVegan Goutmet Festivalには何回か出かけて食べ歩きしているが、京都では初めての機会であった。

  「キッチンgenマクロビオティック」の車麩カツ巻き寿司、マクロビ弁当、握り寿司を、それに「Vegecafe&Dining TOSCA」のけんちん汁を買い、昼食としてベンチで食べた。巻き寿司、弁当に入っている車麩カツはサクサクして植物性とは思えない美味しさであった。さらにマクロビ弁当には豆腐でできた卵焼きが入っており、満足できるものであった。

  いつも利用している三条京阪近くの「CHOICE」、富小路御池下ルにある「浮島ガーデン」、そして鯛焼き屋、パン、ケーキ、クッキーなどの店をいろいろ見て回った。野菜も販売しており、レタス、水菜、レンコン、春菊、ルッコラを購入した。また会場にはヨガ教室も設けられていた。

  さらには百万遍に向かった。知恩寺で開催されている「オーガニックベジフェス 収穫感謝際」を見るためである。昔疫病が流行ったとき住職が百万遍念仏を唱えて疫病を鎮めたということからこの地区は百万遍と呼ばれるようになった。柿、瓶詰タケノコ、九条ネギなどを購入し家へ持ち帰った。近くの京都大学では11月祭が行われており、多くの学生が行き来していた。

2016年11月18日金曜日

坂本城跡

 坂本城跡石碑
 「坂本城跡」の説明
「坂本城」の説明
 二の丸跡付近
 二の丸付近から宇佐山を見る
 東南寺(二の丸があったところ)
 「東南寺」の説明
 坂本城跡石碑(本丸があったところ)
 「坂本城跡」の説明
 明智光秀像
 明智光秀の歌碑
 本丸跡
 本丸跡
 本丸跡(琵琶湖)
 石垣と思われる石
 葦の群生
 三津浜の石碑
 「七本柳」の説明
 七本柳
日吉大社鳥居

  今日は散歩に代わって自転車で、自宅から北4kmのところにある穴太町に続いて、その近くの坂本城跡も訪れた。

  東南寺に至る道に石碑があり、それによると坂本城の二の丸があったところとの説明がある。そこから湖岸に向かうと国道161号線に面してもう一つの石碑がある。これには坂本城跡と刻まれている。その付近は本丸跡公園になっている。

  公園には坂本城の城主であった明智光秀の大きな像がある。何か異様な感じを受ける。説明には本能寺の変のことは何も書いておらず、この坂本での良い殿様であったとの印象を与える書き方である。

  歴史的には本能寺の変の後、秀吉勢力に攻撃され、急ぎ帰った弟左馬之助と光秀の妻熙子は共に自害し坂本城は炎上する。今では石垣などかなりの部分は琵琶湖の底にあるという。光秀、妻熙子の墓は近くの西教寺にあり、手厚く供養されている。

  湖岸には自生する葦の群生があり、この付近は三津浜と呼ばれている。ここには七本柳があり、日吉大社特有の上部三角の鳥居が立っている。日吉大社の祭り神輿船渡御用舞台があり、毎年4月12日に行われる祭りに使用される。今年は大津に引っ越しした当日で見に行けなかったが、来年を楽しみにしたい。

穴太

「穴太衆積み石垣」の説明
 
穴太一丁目
高穴穂神社
「高穴穂宮跡」の説明
神社参道
舞殿
本殿と舞殿
穴太の町並み
穴太町集会所
足利第12代将軍義晴病死の場所

  いつもの散歩の代わりに今日は自転車で4kmほど北にある穴太地区へ出かけた。坂本の手前少し坂を上がったところに穴太の町がある。

  すぐに気が付くのは高穴穂神社である。鳥居前の説明板によれば、12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇の都であったとの伝承があるとのこと。調べてみると日本書紀、古事記に記載があるが実在していたかは確証が取れていないようだ。都も景行天皇は福岡筑紫橿日宮との説、仲哀天皇は下関の穴門豊浦宮との説などあり定かでない。

  この穴太は穴太石垣技術発祥の地として有名である。坂本地区の寺院のほとんどの石垣は穴太石垣である。織田信長がその頑丈な構造を知り、安土城などその後の城の石垣に採用し、全国に広まった。

  この春熊本地震で石垣が壊れているが、壊れたところは現代になって改築したところと聞いている。今回の修復には穴太の技術を採用すべく検討されているという。

  今では普通の町並みであるが、一角に足利12代将軍義晴病死の場所として供養塔があった。室町幕府から戦国時代への移り変わり時期、義晴は京都での政権争いの中、避難する場所として坂本の地を使っていた。その行き来には志賀越道(現在の道路では山中越え)を使っていたのであろう。そして、病気がちになり銀閣寺などから逃れてきてここで亡くなったとの歴史である。

  志賀越道は今も山道として残っているというが、一度歩いてみたいと思っている。聞くところによると峠近くが山崩れで通れなくなっているという。確認してみたく思う。