2017年1月23日月曜日

オリーブの木と野鳥

ベランダのオリーブの木と野鳥
 ベランダのオリーブの木と野鳥
ベランダのオリーブの木と野鳥

  ベランダには二本のオリーブの木がある。以前住んでいたマンションには鉢植えのオリーブの他、ブルーベリー、樅ノ木、枇杷の木などがあった。引っ越しにあたり身軽になるため二本のオリーブ以外は処分して琵琶湖にやってきた。

  二本の内、一本にはたくさんの黒い実が成熟していた。最近野鳥が現れこの実を食べているところを目撃した。毎日のように来て、とうとうほとんどの実が無くなってしまった。

  この広い琵琶湖で、よくもこのベランダのオリーブを見つけたものと感心する。そして食べつくした後は、現れることはなくなった。

  そういえば、つくば時代にも借りた畑一面に小麦の種をまいたとたん、すぐにいろいろな野鳥がやってきて種を食い荒らしていた。それでも小麦の芽が出て一面小麦畑になったことを思い出す。野鳥というのは目がいいのであろうか。

  今回のこの野鳥は何という鳥なのか。ヒヨドリのようであるが、調べているところである。

2017年1月22日日曜日

京都蹴上

 木食遺蹟
(国道1号線山科日ノ岡)
 木食遺蹟(粟田口の大名号碑)の説明
 蹴上インクライン
 インクラインの説明
 船運搬台車
 疎水の堰
田辺朔郎像
田辺朔郎の説明
像のある高台からの風景
(赤い鳥居は平安神宮)
 疎水パイプ(高台から流れ落ちる)
流れ落ちた後の疎水
 岡崎疎水
 東山通今熊野から山科への道
 中尾稜
 中尾稜
 山科側 道標(滑石街道)

  小関越え道を通って山科疎水散歩道をサイクリングし、日ノ岡にある木食遺蹟に達した。木食とは草根木皮の生食のみで生きる難行のこと。木食正禅が江戸中期、京都の最大の刑場である粟田口で回向したとのことで碑が残っている。「南無阿弥陀仏木食正禅粟田口寒念仏墓廻り回向」と書かれているらしいが、下部は地中に埋まっている。

  国道1号線の日ノ岡峠を越えると蹴上である。インクラインを上がって疎水の高台から京都市内が望める。この疎水を設計、施工した田辺朔郎の銅像がある。工部大学校(現東京大学工学部)の卒業論文が疎水であり、それを実現したもの。完成した時は、まだ28歳との若さであったという。明治時代に活躍した人は若くして責任ある業務を任されていた例の一つである。

  この疎水は京都への水の供給と共に、インクラインを使った輸送、それに水力発電による日本初の市電(北野電車)の実用化など、京都の近代化に大きな役割を演じている。この北野電車は今名古屋犬山の明治村に保存されているが、小学生のころ北野へ行くとき実際に乗ったこともある。

  南禅寺、瓢亭、古川商店街などを通り東山通を南下、JR東海道線路を渡ると今熊野となる。途中、八坂神社、清水寺付近は観光客で混雑していた。

  今熊野から山科に抜ける道には鳥戸野、中尾陵参道の道標がある。この道は滑石街道という。一説には、岩屋寺(大石寺)に通じている道であるため冬場凍結の中、大石良雄が遊びで祇園・伏見に通うときに滑ったという話から呼ばれているという。

  峠を越えると山科である。その後山科疎水を通り、小関越え道で帰宅した。

2017年1月21日土曜日

岩屋寺(大石寺)

 小関越えの道
(三井寺側にある地蔵さん)
岩屋寺、大石神社の説明板
岩屋寺(大石良雄閉居址)の道標
岩屋寺の説明
岩屋寺の参道階段
岩屋寺本堂
大石良雄閉居址の表示
大石良雄閉居址の石碑
大石良雄遺髪塚碑の説明
大石良雄遺髪塚の表示
大石良雄遺髪塚
大石良雄手植えの梅
大石良雄手植えの梅の説明
閉居址からの光景
 大石神社鳥居
大石神社の説明
 大石神社本殿
 大石良雄の像
大石桜の表示
 大石桜
坂上田村麻呂公園
坂上田村麻呂の墓の説明
 坂上田村麻呂の墓
 坂上田村麻呂の墓
 小関越え道(左 至三井寺)と旧東海道(右)
 疎水竪坑の説明
(小関越え道 峠までの途中)
 竪坑の説明
竪坑の説明
 竪坑入口
 小関峠
 小関越え道(三井寺側 道標)
小関越道標の説明

  小関越え道の大津側入口にあるお地蔵さんを見ながら峠を越え山科に入った。疎水を通り、今日は岩屋寺(大石寺)と大石神社に向かった。

  岩屋寺で大石良雄は討ち入りに際し策を練ったといわれる。カモフラージュのため毎日のように祇園・伏見で豪遊していたという。妻とは離縁し、もう最後ということでこれが遊び納めという気持ちもあったのではないかと思う。

  岩屋寺には隠棲していた住居跡が残されている。高台にあり山科盆地が一望できる。大石良雄遺髪塚、手植えの梅などがある。近くには大石良雄を祀った大石神社もあり、石像が置かれている。

  この後、山科中心部にある坂上田村麻呂の墓を訪れた。蝦夷征伐で有名な征夷大将軍であるが、蝦夷軍とは何回も戦っている。しかし、なかなか制圧できなかった。結局、蝦夷軍の指導者阿弖流為(アテルイ)は領民を助けることを条件に和解する。アテルイも助命を願い、坂上田村麻呂は都に連れ帰り朝廷に助命を願う。しかし受け入れられず処刑されている。このような歴史から東北は藤原三代に見るように朝廷とは常に距離を置いた独自の支配体制・文化を作ったのではないかと思う。

  帰り、旧東海道を走っていると三井寺参道・小関越え道の道標を見つけた。ここから小関越え道が始まり、大津三井寺山麓に至る。小関峠の手前には、疎水工事用竪坑がある。一番の難工事であったとの説明があった。