2016年12月1日木曜日

志賀越道1

志賀里(志賀越道の大津側入口)
志賀峠、崇福寺跡への道標
 「日本の茶栽培の発祥地」の説明
日本の茶栽培の発祥地
百穴古墳の道標
百穴古墳群
「百穴古墳群」の説明
「百穴古墳群」の図面
「古墳のしくみ」の説明
古墳
古墳
 古墳内部
際川
際川の紅葉
 際川の紅葉
志賀の大仏
 志賀の大仏
 大仏御詠歌
「志賀の大仏」の説明
志賀峠への道標
東海自然歩道(大津京の道)
崇福寺跡の道標
 崇福寺跡への山道
金堂跡、塔跡、弥勒堂跡への道標
「 崇福寺跡」の説明
金堂、講堂の説明
金堂跡と講堂跡の説明図
 金堂跡

 金堂跡

崇福寺跡の石碑

講堂跡から金堂跡を見る

金堂跡

小金堂、塔跡、弥勒堂跡の説明図

「小金堂と塔跡」の説明

小金堂跡と塔跡の説明図

塔跡

小金堂跡

小金堂から塔跡を見る

 金仙滝

霊窟と金仙滝

霊窟

弥勒堂跡への道標

弥勒堂跡への山道

「弥勒堂跡」の説明

弥勒堂跡の図面

崇福寺全体図

弥勒堂跡

弥勒堂跡

東海自然歩道

夢見ケ丘、ケーブル延暦寺駅への山道
(東海自然歩道)
東海自然歩道道標

「南滋賀町廃寺跡」の説明
南滋賀町廃寺跡

南滋賀町廃寺跡の石碑
塔柱跡

蓮華紋方形軒先瓦
 榿木原遺跡の表示
 登り窯遺跡
 「榿木原遺跡」の説明
 「榿木原遺跡」の地図
 登り窯内部

  京都北白川と大津を結ぶ道といえば現在では県道30号線山中越であるが、昔は志賀越道であった。大津は志賀里が入口で、一部30号線とかぶるが同じく北白川につながっている。この道は今でも山道として残っているが、志賀峠付近のがけ崩れで通れなくなっているという。行けるところまで行ってみようとトライした。

  志賀里からゆっくりとした坂を上がると間もなく看板がある。それによると日本のお茶が初めて栽培された所という。805年に僧永忠が唐から種を持ち帰った。今は一般人の庭のようで、茶の植物らしいものも見られた。

  際川に沿ったところに百穴古墳群がある。今から1400年前の古墳時代後期の小型古墳群である。古墳自体の形、埋葬品などから中国、朝鮮からの影響が強いといわれている。近くの際川は紅葉がきれいである。

  山道となりしばらくすると大仏に出会う。志賀の大仏という。同じような大仏が北白川側にもあるそうで道中の安全を祈っているという。大仏講が作られ大切に守られている。

  そして山道の分岐に到着する。左が志賀峠の方向、右が東海自然歩道で崇福寺跡への方向である。まずは、崇福寺跡の方へ行くことにした。しばらく歩くとさらに分岐があり、左崇福寺跡、右弥勒堂跡で崇福寺跡に向かった。

  崇福寺跡は3つの尾根の上にあり、一つは金堂、講堂の跡、そして谷を隔てて小金堂と塔跡、さらに谷を渡り弥勒堂跡がある。尾根を行き来するには急な坂を上り下がりする必要があり、かなり疲れた。昔の人はタフだったのであろうか。

  この寺は天智天皇が大津京に移ってすぐに築かれている。弥勒堂跡の尾根の下を流れる川に金仙滝がありその横に洞窟がある。霊窟と呼ばれている。天智天皇がある日、大津宮の北西方向に霊窟があるとの夢を見て、行ってみると実際に洞窟があった。そこに僧侶がおり、この辺りは仙人の住むところと伝えたとのこと。このことが崇福寺建立のきっかけになったとされている。

  弥勒堂跡の尾根を下りると東海自然歩道に出る。北へはケーブル延暦寺駅につながっているが、反対の方向の志賀越道に戻った。かなり暗くなってきたので、今日はここまでとした。

  帰り道、東海自然歩道に沿って進むと、南滋賀町廃寺跡遺跡に出くわした。この寺の由来は不明のようであるが、発掘された瓦、土器などから白鳳から平安時代末期まで存在していたとみられる。特に瓦は、蓮華紋方形軒先瓦が出土しており、近くの榿木原遺跡の登り窯で作られていたという。

  今日は日没になり志賀越道の峠まで行くことが出来なかった、また近いうちにトライしたいと思う。

2016年11月28日月曜日

西教寺

西教寺正面
西教寺総門
「西教寺総門」の説明
沢庵禅師の碑
 
「沢庵禅師の碑」の説明
小説「細川ガラシャ夫人」の説明
参道の紅葉
 紅葉と比叡山
参道の紅葉
「西教寺」の説明
本堂への階段
 本堂
明智光秀一族の墓
明智光秀の墓
明智光秀の墓
「明智光秀の妻熙子の墓」の説明
明智光秀の妻熙子の墓
「明智光秀公辞世句」の説明
明智光秀公辞世句の碑
境内の紅葉
参道(琵琶湖に向かって)
境内からの琵琶湖(中央は近江富士)
坂本の町並み
坂本地区の穴太石垣
坂本地区の穴太石垣
「南滋賀遺跡発掘調査」の説明
南滋賀遺跡発掘調査現場

  自宅から6kmくらいのところに西教寺があり、自転車で出かけた。途中、坂本地区近辺には有名な穴太石垣が多く見られる。門前町の面影が残る坂本の町並みを通り過ぎて西教寺に着いた。

  坂本城門を移設したといわれる総門をくぐると、紅葉が美しい参道に入る。参道にはここを訪れたという沢庵禅師の石碑、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」の文学説明板などがある。光秀の娘玉子の話である。参道からは比叡山が望める。そして階段を上がると本堂に達する。この寺は聖徳太子由来のものといわれている。

  本堂左手前には明智光秀一族の墓がある。光秀と妻熙子の墓である。光秀は信長に命じられて延暦寺焼き払いを実行、その時同時にこの西教寺も焼き払う。その償いか、その後坂本城主になると再建に力を注いだという。焼き払いは本意ではなかったが信長に従わざるを得ないという、生き残るためには何でもやらざるを得ないという戦国時代の宿命であったのかと思う。

  信長は比叡山焼き払いのみならず伊賀上野など至る所で住民も含めた殺戮を繰り返しており、光秀はその反目から本能寺の変を起こしたのではないかとの見方をしたくなる。光秀の辞世句も、戦国時代の非情の世界を憂いていることが伺える。

  境内からは琵琶湖対岸奥に近江富士が望める。人出はほとんどなく、京都の混雑に比べて静寂の中での心落ち着く散策であった。ゆっくりと晩秋の紅葉を楽しんだ。

  帰り道で、遺跡発掘の現場を通り過ぎた。1400年前の古墳時代後期の竪穴建物という。日本の色んなところでこのような遺跡があるようで、これからも新たに発見され日本の歴史が判明するようで興味深い。

2016年11月27日日曜日

アドヴェント

我が家のクリスマスツリー(背景は琵琶湖)
我が家のクリスマスツリー
湖畔からの琵琶湖夜景
湖畔から見たクリスマスツリー

  12月25日の4週間前の日曜日はヨーロッパではクリスマスシーズンの始まりである。第1アドヴェントといい、4本のローソク飾りの1本を灯す。さらに1週間後には第2アドヴェントとしてもう一つともす。4本のローソクすべてがともる第4アドヴェントでクリスマスとなる。

  ドイツからE-メールで第1アドヴェントのメールを受け取った。送ってきたのはクリスマスに関連したU-tubeの音楽画面である。早速U-tubeを開き画面音楽を楽しんだ。

  我が家でも本日、青色LEDで飾ったクリスマスツリーを点灯した。その写真をとりE-mailで返信した。本年も冬にはヨーロッパに行きたかったが腰痛のため行けないと伝えた。

  今春の引っ越しの際、腰を痛めてリハビリの毎日である。何とか歩いたり、自転車には乗れるようになったがまだ痛みは続いており、特に座ったり、立ち上がったりするときにはかなりの苦痛を伴う。次回のヨーロッパはウィーンに3か月ほど滞在したいと考えている。行けることを楽しみにしながらこれからも地道にリハビリ体操を続けようと思う。