2020年2月12日水曜日

Imamiya-Shrine(今宮神社)

Location of Daitoku-Temple and Imamiya-Shrine
Stone Pillar of Imamiya-Shrine
 
Explanation of Imamiya-Shrine
 Roumon(楼門)
 Name Plate of Shrine(扁額)
 
Pine Trees of Karasaki(唐崎の松)
 Haiden(拝殿)
Honden(本殿)
 Ekisha(疫社)
 Name Plate of Ahokashi-san(阿呆賢さん)
 Expalnation of Imamiya Strange Stone
 Strange Stone
 East Gate(東門)
 Aburimochi Shops(阿ぶり餅)in front of East Gate
Walking 9.42 km, 10499 Steps
(JR Otsu Station)

  昨日は大徳寺境内を歩いたのち、北西にある今宮神社に向かった。北大路通から北に向かう道には大きな今宮神社の石標が建っている。

  平安遷都後に、疫病、災厄を鎮めるための紫野御霊会が始まっている。1001年にも疫病がはやり、その流れをくんで朝廷が今宮神社を今の地に創建している。

  応仁の乱で消失したが、秀吉が神輿など一部を復興させた。その後、西陣出身のお玉、すなわち徳川光圀側室の桂昌院が地元の神社との意識から力を注ぎ神社を完全復興させ、今に至っている。お玉は、玉の輿の語源として有名である。

  楼門をくぐると、境内には背の高い松の木が何本もそそり立っている。この木は大津日吉大社摂社の唐崎神社の松を植え継ぐものであるという。

  拝殿を通り、本殿前にくる。その左には疫社があり、もともとの紫野御霊会の流れをくむ社である。

  境内に阿呆賢さんという建物があり、今宮の奇石が置かれている。この石に触り、その手で具合の悪い体の部分をこすると治るという。また願いを唱え撫でて、持ち上げて軽いならば願いが叶うという。

  境内東に東門があり、その参道には餅屋が並んでいた。あぶり餅といい、お客さんで賑わっていた。平安時代から続く、日本最古の和菓子屋といわれている。

あぶり餅 平安時期の 味続く
(あぶりもち へいあんじきの あじつづく)

  この後南下し、船岡山に向かった。今宮神社が創建される前は、紫野御霊会はこの船岡山で実施されていたそうである。

2020年2月11日火曜日

Daitoku-Temple(大徳寺)

 Kitaoji Station of Kyoto Subway
 Karasuma-Kitaoji (Center : Mt. Hiei)
Daitokuji-Cho
Explanation of Daitoku-Temple
 Approach to Daitoku-Temple
 Chokushimon(勅使門)
Sanmon(三門)
 Name Plate of Kinmoukaku(金毛閣の扁額)
 Sanmon & Chokushimon
Butsuden(仏殿)
 Ibuki Tree of Daitoku-Temple (about 350 years old)
 Butsuden & Ibuki Tree
 Hattou(法堂)
 Bell Tower(鐘楼)
 
 Soukenin(総見院)
 Mausoleum of Oda Nobunaga in Soukenin
 Tombs in Soukenin

Explanation of Sangenin

Tomb of Ishida Mitsunari in Sangenin
Horikawa Shimotachiuri
Walking Trajectry
(Daitokuji, Imamiyajinja, Funaokayama, Myourenji, Seimeijinja, Horikawa)
 Walking 20.47 km, 21741 Steps

  修理に出していたカメラを取りに行くため、京都駅前の電気量販店に出かけた。天気が良いので、受け取った後地下鉄で北大路まで乗り、散策することにした。

  烏丸北大路から西に向かうと大徳寺に至る。初めてその境内を歩いた。入るとすぐに勅使門があり、その後ろには赤い大きな三門が建っている。その扁額には金毛閣と書かれている。

  1315年の創建であるが、当初の三門は応仁の乱などで消失している。1529年に連歌師宗長により1階部が再建され、さらに1589年千利休により2階部が増築され、金毛閣と呼ばれるようになった。

  この時、2階部に雪駄を履いた千利休像が設置された。これが当時の権力者秀吉の逆鱗にふれ、千利休は切腹を命じられたという。この寺に入るには千利休の足元をくぐらなければならないためである。

  先日、京都大仏の惨事は秀吉に対する呪いではないかと書いたが、その一例が千利休ではないかと思う。

  さらに歩くと、仏殿、法堂と禅寺の堂々たる建物を見ることになる。仏殿前には樹齢350年ほどのイブキの大木がある。

  鐘楼の隣には総見院という塔頭があり、織田信長の廟所となっている。大徳寺は織田信長の葬儀が行われたことでも知られている。

  さらに興味深いのは、塔頭の一つである三玄院には石田三成の墓もあることである。戦国時代の武将が眠る場所でもある。

  今日はこの後、今宮神社、船岡山、妙蓮寺、晴明神社、堀川を通り、堀川下立売からバスで京都駅に戻った。

  京都も以前に比べれば観光客が随分少なくなり、特に中国からの観光客はたまにしか出会うことはなかった。観光業者には痛しかゆしであるが、住人にとってはホッとすることと思う。

ウイルスで 京都の人出 激減だ
(ウイルスで きょうとのひとで げきげんだ)

2020年2月10日月曜日

Old Nintendo Head Office(旧任天堂本社)

Old Nintendo Head Office (Videos)
Walking 7.09km, 8121 Steps
(Usual Course)

  豊国神社の西に続く正面通りの耳塚を通り過ぎて、まっすぐ歩くと鴨川に来る。鴨川にかかる正面橋を渡り次の道角に任天堂発祥の旧本社ビルがある。

  玄関口はそれほど大きなビルではないように見えるが、北に向かって歩くと奥に結構大きな建物になっている。

  玄関の表示には、山内任天堂とある。昔花札を作っていた時には創業家の名前が入っている。

  これだけの土地と建物があれば、ホテルに改造しても立派な宿泊施設になるものと思う。近くには茶筒の開花堂もある。完成すれば観光客の流れが変わるものと思う。

老舗家の 古い社屋を ホテルにす
(ろうほけの きゅうほんしゃ ほてるにす)

2020年2月9日日曜日

First Snow(初雪)

First Snow at Yanagasaki Lakeside Park
Firt Snow at Yanagasaki Lake Side Park
(Video)
Kite Flying with Boy of Visiter
(Video)
Walking 4.88 km, 6289 Steps
(Half of Usual Course)

  今朝起きると琵琶湖畔は真っ白であった。初雪であった。今年はずいぶん遅い。しかし日が昇るとほとんど溶けてなくなっていた。

  昨日からドイツからのお客さんが泊っている。ドイツ時代からの付き合いのある親子孫の3人である。

  生まれた時から知っているお子さんであるが、早いもので7才とのこと。言葉を注目していたが、母親から日本語で話しかけると日本語で答える。自分から話すときにはドイツ語が先に出る。

  私にとってはドイツ語は聞き取りにくいが、母親はちゃんと理解し、今度はドイツ語で返答している。

  とにかく日本語とドイツ語が行きかう会話で、不思議な感じである。

  雪が解け、お子さんと一緒に凧揚げに出掛けた。結構高く上がり最初は喜んでいたが、むしろ砂浜での砂遊びに夢中になっていた。

  音楽家家族であるため、お子さんは音楽を聴きながら指揮をしたいという。カラヤンの曲がいいといい、You-Tubeでベートベン第五、第九交響曲、モーツアルトの交響曲などを出し、ホームシアターに映したところ、自分で指揮をやりだした。

  そして朝比奈隆の名前も出てびっくりした。中高大学時代に大フィルの指揮者としてよく聴きに行っていた指揮者である。ドイツに住む7才の子にまでその名前が知れているとは知らなかった。

朝比奈の 名前ドイツで 知られてる
(あさひなの なまえドイツで しられてる)

  特に音楽教育はしていないそうであるが、血筋と音楽の雰囲気の中で生活していることで自分で興味を持って好きになったようである。

  将来が楽しみである。

2020年2月8日土曜日

Mimizuka(耳塚)

Mimizuka (Videos)
Burial Mound for severd Ears
Walking 9.03 km, 9670 Steps
(Kyoto Station, Picked up Visiters)

  日本と朝鮮半島・大陸との戦いといえば、古くは天智天皇時代の白村江の戦い、鎌倉時代の元による元寇、そして秀吉による文禄・慶長の役である。

  秀吉は戦闘の成果として、相手の耳、鼻を持ち帰ることにより戦功と判断した。秀吉はそれを弔うため耳塚を作っている。

  先週方広寺を見た後、豊国神社正面通りを西に50mほど歩き、その耳塚に立ち寄った。古墳のような形をしている。

  日本と朝鮮半島の関係は技術・制度・文化の交流もあったが、戦いの歴史でもある。第二次世界大戦で植民地にしたが、一時的なもので結局敗戦により引き上げている。

  いま朝鮮半島との関係は再度悪化している。ヨーロッパにおけるイギリスとドイツ・フランスとの関係と似ている。過去の戦いの歴史を反省して EU が発足したが、このたびイギリスが EU から離れることになり、また昔にもどるように感じる。

隣国と 紛争歴史 今もあり
(りんごくと ふんそうれきし いまもあり)

  隣国との関係は難しいものである。

2020年2月7日金曜日

Houkou-Temple(方広寺)

Hondou of Houkou-Temple
(方広寺の本堂,  Video)
Bell Tower(鐘楼、Videos)
Inscription of Kokka-Ankou Kunshin-Houraku
(国家安康、君臣豊楽の銘文)
Site of Kyoto Great Duddha Image
(京都大仏跡, Videos)
Walking 4.90 km, 3822 Steps
(Yamashina Muji-Store)

  焼損した東大寺大仏殿に代わる大仏の建立を1586年に秀吉が計画している。そして、1595年に京都大仏が完成した。これが方広寺の始まりである。

  当時の寺の敷地は豊国神社京都国立博物館三十三間堂に至る広大なものであった。三十三間堂南にある太閤塀、南大門は当時のものである。東寺の南大門は方広寺の西門を明治になって移設したという。

  京都大仏は高さ19mにも及び、東大寺の大仏をしのぐ大きさであったという。その後伏見大地震により崩壊。秀頼のときに再建されたが幾度となく地震、雷、火事で消失し、江戸天保期に半身の大仏が再度造られた。1973年にはまた焼失し、そのまま再建されることなく、今はその一部が跡地として公園となっている。

  先週この方広寺附近も歩いたが、今では本堂と鐘楼が残っているだけであった。鐘楼は有名な銘文「国家安康、君臣豊楽」が記入された梵鐘で、東大寺、知恩院と合わせて、日本三名鐘の一つといわれている。

  家康が、この銘文は徳川家を冒涜するものとして、大阪の陣で豊臣家を滅ぼす口実にしたのは有名な話である。
 
  怖いもののたとえに地震雷火事おやじというけれど、長い歴史の中で京都大仏はおやじ以外の惨事をすべて経験している。秀吉を呪うものがあるのかと思う。

大仏の 惨事多発は 呪いでは
(だいぶつの さんじたはつは のろいでは)